ブックオフ好きを公言し、共著『ブックオフ大学ぶらぶら学部』(岬書店)の中で、「川島なお美の体がワインでできているなら、自分の体はブックオフでできている」と書かれたライターの武田砂鉄さん。武田さんはブックオフで何を見て、どんなことを感じているのでしょうか。長文エッセイにしたためていただきました。

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武田砂鉄の写真

武田砂鉄

ライター

1982年、東京都生まれ。新聞や雑誌、WEBなどの幅広いメディアで執筆する傍ら、ラジオパーソナリティとしても活躍中。最新著書に『わかりやすさの罪』(朝日新聞出版)。

前置きは手短に。とにかくしょっちゅうブックオフに行く。行き続けてきた。馴染みのない駅に行く用事があれば、あらかじめ「〇〇駅 ブックオフ」で検索し、用事の前後に訪問する時間を設けてきた。少し前、ブックオフ愛について、ある特集本に綴った。その中で記した「新刊書店は体調が悪くても楽しめるけれど、ブックオフは体調が悪いと楽しめない」との主張に、ブックオフ好きの何人から、静かに「その通りですよ」「よくぞ言ってくれました」と告げられた。

圧倒的な物量で圧力をかけてくる

一言で言えば、「彼ら」(以降、ブックオフをこう称することにします)は、こっちにプレッシャーをかけてくる。圧倒的な物量。管理されているようで出来心のようにも思える値段付け。何かしらの目的を持ち、目が血走っているお客。様々な精神状態・身体条件が折り重なり、なかなかの疲労感がやってくる。充実感と疲労感は紙一重というか同居しているということを、「彼ら」は私たちに叩き込んでくれる。「彼ら」の元に通い続けて四半世紀、自分はこうやって「彼ら」を堪能しているのですと、ただひたすら細かな点を伝えることによって、「彼ら」が与えてくれる充実感と疲労感を疑似体験していただければ幸いである。

ブックオフの店舗

棚の呼吸を見る

「彼ら」の元へ向かう。まずは店構えを見る。独立した建物であれば、その形状のバリエーションはなかなか豊かだ。居抜きの店舗を無理やり「彼ら」化した様子が見受けられると、その異物感に興奮する。既存のビルの中に店を構えている時には、その存在感を見せつけるための強烈な色彩感覚を堪能する。とにかく強い色を塗りたくり、強い照明を発する。私たちはいつの間にか吸い寄せられる。

店に入る。店員の大きな声が聞こえる。誰かの大きな声が別の誰かの大きな声を呼び、その声がさらに別の誰かの大きな声を呼ぶ。ちょっと集中したいから静かにしてくれないかな、と思ううちは、初心者である。通い詰めると、あの大きな声くらい、脳内で消し去ることができるようになる。自分の場合、まずCDコーナーに向かう。500円棚の面積を確認する。この棚の有り様によって、全体のCD棚の広さ、そして店舗をどう回るかの展開が見えてくる。自分なりに軸を定めておかなければ「彼ら」の全貌は掴めない。CD棚が呼吸しているかどうかを見る。呼吸とは何か。二つの意味がある。新しい商品が入ってきているかどうか。値下げされて500円棚に流れ込んできているかどうか。

呼吸というか血流というか、ここが硬化している店は、いくら時間をかけても、良き出会いに恵まれない。矛盾するかもしれないが、初めて入った店でも新しい商品が入ってきているかどうかは感知できる。自分はハードロック/ヘヴィメタル好きなので、その手の音源を中心に探ることになるが、どの店にもあるかつての売れ筋、ボン・ジョヴィやミスター・ビッグあたりの量によって、お店の硬化を確認する。このあたりがあまりに充実しすぎているとよろしくない。絶対に退こうとしない地主によって都市計画が頓挫するような感じだ。ボン・ジョヴィやバックストリートボーイズが我が物顔をしているようではいけない。それらが数多く並ぶのは、市場に出回った量から考えれば致し方ないこと。その隙間に入り込み、血行を促進する存在がいるかどうかだ。

時折、まだ出て間もない作品が500円コーナーに紛れていることがある。ジャンルに特化した専門店ならば1,500円近くする作品がうっかり混ざり込んでいる。血行促進のために計算尽くで投入されたのか、本当にうっかりだったのかはわからない。その存在を発見すると、今日の「彼ら」との付き合い方は良好になりそうだと前のめりになる。

CDコーナーの510円均一棚

常に未完成の棚とどう向き合うか

店内では、とにかくひたすら片付けが繰り返されている。片付けの方法を指示している人がいるから、明確な方針に基づくものなのだろう。基本的に、客の動きよりも自分の片付けを優先する。初心者は、その様子に苛立ちを募らせる。いや、中級者も上級者も苛立ってはいる。CD棚のAから順番に見て、DからKくらいの棚を整理している店員がいる。そこから退こうとはしない。ならばこっちが、Lからの棚に移動する。Zまで辿り着くころにはDが空いている。満を持して体を移す。

常に片付け中、という実態とどう向き合うか。着工から100年が経過しようとも、いまだに建設中なのがスペインにあるサグラダ・ファミリア。2026年にはいよいよ完成すると言われている。建設中だが、観光客は入れるし、建設中であることに文句を言う人はいない。建設に向けて奔走する人に、「せっかく来たのに、なんで工事中なんだ」とふっかける人もいない(行ったことないから知らないけど)。「彼ら」とも、これと同じように向き合うことができないものか。できないか。呼吸や血流を求めているのに、それを作り出す人たちを煙たがってはいけない。ただし、ベテランが新米をちょっと強めに指示していることもあるから、それはちょっとやめてほしいなと思う。新米は、ベテランじゃないから新米なのだ。

CDは、店舗によって、厳しい値付け、曖昧な値付け、優しい値付け、方針が微妙に異なる。その方針を読み取りながら、どこまで集中すべきかを決める。血行を見極めながら自分の集中度を管理する。これから店内のあちこちを回るのだから、体力を残しておかなければならない。自分の好きなメタル系が積極的に500円で出されていると知れば、この店は要チェック度があがる。価値を見極める人がいない、という宣言にもなる。アーティスト名とアルバム名を誤り、アルバム名のアルファベットを採用しているところなども狙い目だ。「整理するほう、売るほうが、そんなに知識を有していない」というのは弱点に思われがちだが、客にとってはチャンスにもなる。

CD棚を入念に見る同胞がいたとする。Aから順番に見る同胞の後についていくと、その同胞にいいものを奪われてしまう。そんな時、自分はZに回る。逆から見ていくのだ。すると、真ん中すぎのMあたりでバッティングする。先手はあちらだが、簡単に譲るわけにはいけない。チキンレースの様相だ。ギリギリまで体を近づける。こちらが避けるか、あちらが避けるか。チキンレースに勝利し、Nあたりで自分が欲していたものを手にした経験が何度かある。こういうせめぎ合いの中を勝ち抜いた経験が脳裏に刻まれる。

文庫、そして新書100円コーナーのカオス

次は文庫本を覗きに行く。50音順に行くのが順当だが、文庫棚は、50音順、時代小説を経た後に、その他の文庫が並ぶ地帯がある。ちくま文庫・中公文庫・岩波文庫・講談社学術文庫などの玄人向けの文庫が並び、その他雑学系の文庫が並ぶ。ちょっと昭和な形容を用いれば「おもちゃ箱をひっくり返した」ような散らかったラインナップで、異性にモテる方法があれば、聖書があれば、ゴルフのパターがうまくなるものもある。渋めの文庫からの劇的な展開がいい。由緒正しい寺院の隣にド派手なショッピングセンターが建ったような、景観を気にしない攻撃性が頼もしい。

新書コーナーでも同様だ。とりわけ、各新書レーベル以外の新書サイズの本を集めた100円均一コーナーのカオスは、風物詩と言ってもいい。欲望と欲望が高め合い、絶望と絶望がぶつかり、邪念と邪念が仲むつまじくしている。新書サイズというのは、流行りに乗っかって急いで出してみました、という本も多いので、その先走り感が時間を経て滞留している感じがたまらない。派手なタイトルが目立つのに、あまりこちらを見ないでほしい、という背中をしている。そういう本をわざわざ引っこ抜くと、5年前、10年前、20年前、それぞれ流行っていた局地的な何かを捉えることができる。染み出してくる記憶をその手の本にぶつける。時折、テレビをつけると放送されている、懐かしのブームや秘蔵映像とは違って、ここには、ドラマチックな展開はない。自分の記憶の断片が、そこに印字されているものと静かに反応する。

この静けさ、そして雑多さがいい。こっちの記憶を挑発してくる。整理整頓された、あるいは書店員の意図が丁寧に敷き詰められた新刊書店にはない点だ。寝かしたものを起こす。あっちは起こされたくないのに起こす。背徳感とも違う。どうしてわざわざそんなことするんだ、と迷惑がられる感覚だろうか。

100円(+税)均一の棚

うっかり購入してしまう本がもたらすもの

単行本は、まず100円コーナーを流す。CD棚の500円コーナーと同じで、このコーナーのラインナップというか空気感によって、書籍コーナー全体の佇まいを推察することができる。数年前のベストセラーが並んでいることにグッタリしてはいけない。それはどの店舗でも同じこと。ベストセラーに絡みついてくる存在の有無・多少を見極めなければいけない。

芸能人本コーナーに行く。芸人にしろ、アイドルにしろ、モデルにしろ、絶頂期に出された本が並んでいる。芸能人の絶頂期というのは、何をしてもお客さんがついてくる。だが、どうにも芸能界という世界は世知辛いようで、大抵の人の絶頂期はとても短い。短いとわかっている周囲の人々が、とにかく急いで作れと本を完成させる。ページをなんとか埋めるように、子どものころの写真を入れたり、ユルいQ&Aのコーナーを作ったり、好きなファッションだけではなく、好きな文房具として、中学時代は蛍光ペンが好きでした、なんて無理矢理なコメントを載せている。ああ、頑張ったんだろうな、と作業工程を想像する。ある一定期間の全速力が密封されているのがタレント本のいいところだ。それは、時を重ねた後に価値が高まるものでもないのだが、「全速力が眠っている」という状態は日常生活では味わいにくい。

どうせ熟読することはないだろうと思いながらも、うっかり購入してしまう。購入して、家に帰った頃には、なぜこれを買おうと思ったのかよくわからない本というポジションになる。間違った判断に思われるかもしれない。だが、今、そういう本が家に紛れ込むことって、なかなかない機会なのだ。それを「彼ら」は安定的にもたらしてくれる。とにかく戸惑わせるのだ。今、商品の陳列で、こっちを戸惑わせてくれる場所がどこにあるだろうか。だから、「彼ら」と付き合うと疲れる。でも、その疲れを超えて漁りにいくのだ。「新刊書店は体調が悪くても楽しめるけれど、ブックオフは体調が悪いと楽しめない」とはそういうことだ。

作業中のブックオフ店員

自分の本が安くなっていく

自分が初めて本を出したのは2015年4月のこと。このタイミングで「彼ら」との付き合いは変わった。なんたって、その「戸惑わせる」店内に自分の本が混ざりこむようになったのである。新刊書店で自分の本を見つけることはもれなく嬉しいことで、多面展開されていればそれだけでその書店が好きになってしまうのだが、ここではそういうわけにはいかない。

あ、自分の本だ、と発見し、おそるおそる近づく。当然、値段を見る。1,200円。だいぶ高い。発売直後はこんな値段がついた。これが徐々に落ちていく。750円、500円、350円。200円均一棚にたどり着いた時には、さすがに寂しさがあった。それなりの値付けで店内デビューしたのに、どんどん下げられていく。目立った活躍ができずに年俸を下げられる野球選手の気持ちが少しだけわかる。そこではじめて、ああ、ここに来て、ここにある本の気持ちを考えたことがなかったことに気がつく。

ここでは、値付けシールが何重にも重ねられ、その厚みが、転居を繰り返してきたキャリアの長さを物語る。それが、自分の本にくっついているのである。古本屋で自分の本が売られているのを嫌がる書き手の人も多いのだが、誰かが買い、誰かに売られて、そこに停滞している状態を味わえばいい。……なんて言っていられるのも最初のうちで、そのうち、あちこちで自分の本を見かけるようになる。じっくり受け止める。100円にもなった。売った人、売っている人、書いた人、誰が悪いわけでもない。そもそも悪い、とも思わない。そういうものなのだ。

そこにその本がある意味が、存在しているわけでもない。でも、それでいいのだ。「彼ら」に吸い込まれると、そこに特に意味があるわけではなく、何もかも、自分で意味を作っていくことになるのである。今、そういう体験をさせてくれるところって少ない。ここはこういう意味ですよ、ここのオススメはこれですよ、と伝えてくる。買い物をする上で、間違わないように、戸惑わないようになっている。

でも、ここでは、間違いを犯す。たくさん戸惑う。自分と店の波長次第で買うべきものが変わる。「彼ら」側は誠実な態度を客に示していると思っているはず。その通りだ。でも、それ以上に、店を包み込む無機質、無情にも私たちは飼いならされている。それでいいと思っている。それをさせてくれるところって、ここくらいしかないのだ。店を出るまでには、無数の選択肢が待ち構えている。そして、その選択肢を自分なりに手繰り寄せなければならない。

昨日も行った。今日はこれを書いているので行けていない。明日も行けそうにない。ならば、明後日には行こうと思う。だって、何があるかわからないし、何が買いたくなるかわからない。行くしかないのだ。

TEXT:武田砂鉄
PHOTO:ブックオフをたちよみ!編集部

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